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特集2.日本の大衆音楽(終)演歌、歌謡曲と西洋音楽 談 菊池清麿

 
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ビートルズのエイトビートの衝撃

 1966年、日本のポップス界に黒船が到来します。それは、ビートルズの来日でした。日本のポップスが大きく変わります。タイトに刻まれるエイトビートは衝撃的でした。これによって、日本のポップス歌謡はエイトビートにのって歌えるかどうかがポイントになりました。
 1960年代の後半(昭和40年以降)から盛り場演歌、現代演歌が隆盛すると、歌謡曲は演歌が中心になってきました。そして、政治メッセージだったフォークソングは歌謡曲を媒体に商業フォークになり、歌謡曲からは独立していきます。
 70年代に入ると、歌謡曲はポップス系のアイドル歌謡、現代演歌、なつかしの名曲、その一方では歌謡曲を媒体にしたフォークソングが台頭します。吉田拓郎、井上陽水らが商業ベースに乗って自作自演のスタイルでフォークギターを奏でヒットソングを歌いました。ポップス系アイドル歌謡は、ルックスが重視され、エイトビートに乗れなかった60年代後半のアイドル系歌手とはうって変わって、アクションも入り、アイドル全盛時代を迎えます。

なつかしの歌声ブーム

 当時の中高年者は、60年代後半から70年代にかけて、このような歌謡曲の時流に馴染めず、なつかしの歌声ブーム、名曲の復活を待望しました。これは非常に大きなブームを呼び、藤山一郎、東海林太郎、淡谷のり子らは、アイドル歌手なみにテレビで歌うようになります。
 レコード大賞の特別賞を受賞したりしますから、アイドル歌手、人気演歌歌手らと一緒に大晦日にテレビに出演することもあったわけです。また、歌謡番組でなつかしの名曲のコーナーも設けられたりしたので、天地真理の「ひとりじゃないの」の後に藤山一郎が「青い山脈」を歌うというようなこともありました。歌謡曲の最後の豊かな時代でした。
 しかし、東海林太郎の逝去(昭和47年)以後は、「なつかしの歌声」が「日本の名曲」という広い意味になり、戦前の歌が中心だったブームの内容も変化しました。70年代後半ぐらいから、歌謡曲はほとんど現代演歌に矮小化されていきます。80年代に入ってくると、歌謡曲はほとんど演歌のイメージになってきます。

歌謡曲の終焉と現代演歌

 そして、フォークソングがニューフォークからニューミュージックとなり、演歌中心の歌謡曲から完全に独立して、現在のJポップにつながっていきます。この変化に、音楽的に大きな影響を与えたのはやはり、ビートルズです。日本のポップスは、すでにのべましたが、ビートルズの影響からエイトビートが中心になりました。ビートは日本語と相容れるものではないので、リズムセクションが中心になり、ロックが歌謡曲に接近すると、日本の心情を歌う歌詞や情緒的なメロディーは大きく後退します。
 やがて80年後半からコンピュータによる音楽テクノロジーの時代になりますと、それが楽曲の作曲や演奏の中心になります。そうなると、伝統的な広い意味での歌謡曲とはまったく別世界になります。また、80年代はロック系スタジオミュージシャンが演奏するアイドル歌謡も歌謡曲の範疇でなくなるわけです。
 80年後半から90年代にかけては極端にいうと歌謡曲は消滅していきます。その原因の一つは、ビートルズ以後に日本ポップスが発展し、歌謡曲=演歌・艶歌になったことにあります。「Jポップ」は日本的な情緒を感じさせないジャパニーズ洋楽ですから歌謡曲でないことは当然なわけですが。演歌は、感傷(センチメンタリズム)だけが強調され、日本的情緒・抒情が希薄になってきたように思えてなりません。
 従来は、中年になると日本人は演歌好きになるといわれていましたが、その演歌も、70年代にみられた演歌に登場する女性像(男に捨てられた女の未練・ため息・涙)と90年代の女性の時代(自立・強い女性)と、女性観のズレが生じ、中年を迎えた世代が弱い女や男の背中をテーマにした演歌を聴くことが少なくなりました。
 それと並行して、正統派歌謡の往年の戦前の歌い手・作曲家の人たちがどんどん亡くなっていきました。79年に古賀政男、89年に古関裕而、93年に藤山一郎、服部良一など、戦前の歌謡曲の豊かな時代を創ってきた人たちが亡くなり、歌謡曲は完全に終わるのです。
 もっとも戦後の歌謡界を象徴する美空ひばりの死(1989年)をもって歌謡曲の終焉という人もいますが、どちらにしても、歌謡曲の豊かさはなくなりました。
 歌は世につれ世は歌につれということはわかりますが、外国ポピュラー音楽やクラッシック音楽から派生した歌謡曲を古典的鑑賞曲にすべきだったと思います。それは、音楽産業の構造上難しいと思いますが。

流行歌とクラシックの二項対立

 私が『藤山一郎歌唱の精神』を春秋社から上梓した頃は、20世紀なって明確になったクラシック音楽=高級、流行歌=低俗という二項対立の時代の歴史が音楽史の世界において重要なテーマとなっていました。
 ヨーロッパのクラシック音楽は19世紀市民社会の成立によって聴衆が誕生して、市場が成立します。そして、20世紀になると、ポピュラー音楽の世紀が始まります。日本でも昭和に入り歌謡曲の成立によって大衆音楽が確立すると、クラシック音楽が高級で、大衆音楽が低級という、二項対立がはじまっていきます。人材が大衆音楽に流れる傾向がありましたから、クラシック側からの大衆音楽への誹謗・中傷はかなりあったようです。
 しかし、東西を問わず、クラシックの演奏家・作曲家のトップレベルの人たちが大衆音楽を発展させた歴史があります。その後は、水は低きところに流れますから、商業ベースに乗って裾野が広がっていくのは当然でしょう。その二項対立のなかで、クラシックの演奏家でもあった藤山一郎は、歌謡曲でも大スターになり、「負の世界」と見られた歌謡曲に、実は人々の励ましとなるような「陽の世界」があるということを、知らしめたのです。感傷、悲しみに埋没しがちな歌謡曲の世界に、生きる希望と励ましを与えるクラシック音楽の持っている力を示したのが藤山一郎です。

豊かな流行歌の世界へ

 歌謡曲は、クラシックのように古典を何百年も聴くというものではありませんから、流行歌の市場は、常に拡大していかなければなりなりません。歌は世につれて、どんどん新しい人を作っていかないと、業界そのものが発展していかないところが、大衆音楽、歌謡曲の難しさです。
 もし藤山一郎が存在せず、増永丈夫のままで、クラシックの世界で歌っていたら、声楽がオペラ一辺倒ではなくて、もっと広く大衆に聴いてもらう愛唱歌、ポピュラーな歌曲が広まっていたでしょう。とはいえ、藤山一郎の登場がなければ、品格と気品のある大衆音楽の時代は存在しなかったかもしれません。その後の音楽学校出身者が生涯現役で歌謡曲を歌うということもなかったでしょう。
 21世紀の今日、もはや、クラシック=高級、大衆音楽=低級という枠組みは存在しなくなったように思えます。親しみやすいクラシックの曲が聴かれ、また、クラシックの影響を受けた歌謡曲が古典的鑑賞曲としてメディアから流れる時代が来るのかもしれません。そうなれば、もっと豊かな流行歌の世界が広がって行くのではないかと思います。<2006.11>

(談 きくち きよまろ)

 
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