SPECIAL~特集

特集2.日本の大衆音楽(2)演歌、歌謡曲と西洋音楽 談 菊池清麿

 
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歌謡曲の登場

 大正から昭和にかけて、「新作小唄」、「流行小唄」、「新作歌謡」、「新民謡」などいろいろな名称が出てきて、その内、言葉としては演歌、艶歌は使われなくなります。そのかわりに、「歌謡曲」という言葉が普及します。
 歌謡曲という言葉は、もともとは、クラシックのリート(歌曲)を指していました。たとえば、藤山一郎(1911〜1993)が昭和初期に本名増永丈夫(たけお)でドイツリートを歌ったときに歌曲を指す意味で歌謡曲という言葉が使われています。歌謡曲という言葉を使っていても、流行歌の意味では使っていなかったのです。
 NHKがラジオ放送を始めて間もなく昭和2年頃に、歌謡曲が流行歌を指す放送用語として、便宜上、使ったのが最初だといわれています。「ちゃっきり節」の作曲者で日本民謡研究家の町田佳声(嘉章)が命名しました。流行歌という概念で歌謡曲という言葉を使ったのは昭和に入ってからです。昭和10年代に入ると歌謡曲という名称は一般的になっていきました。

レコード会社による電気吹込み

 昭和に入って、流行歌の世界は大きく変わります。米国ビクターが日本ビクターを設立、日本蓄音器商会が英米コロムビアと資本提携し日本コロムビアを作ります。流行歌の作られ方も、レコード会社が企画・製作し、新聞メディアなどの宣伝によって、大衆に選択させるという仕組みになりました。
 また、録音システムも従来のラッパ吹込み(アコースティック録音)からマイクロフォンを使った電気吹込みに変わります。流行歌をレコードで聴く時代になり、街頭の歌は、ほとんどすたれてきます。クラシックの赤盤、青盤、ジャズレコードなどがカフェー、ダンスホール、街頭などで蓄音器から流れ、アメリカニズムの影響を受けた昭和モダンの消費文化に酔う大衆が流行歌に魅了される時代になりました。

藤山一郎のクルーン唱法

 マイクロフォン使った電気吹込みでは、ヴォーカル革命といわれた藤山一郎の果たした役割は大きいと思います。藤山は昭和6年、古賀政男作曲の「酒は涙か溜息か」を、マイクロフォンに効果的な録音するために、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で古賀政男のギター曲の魅力を伝えました。ホールの隅にまで届く美しい弱声の響き(メッツァヴォーチェ)をマイクロフォンにのせたのでした。「影を慕いて」ではファルセット(透明感のある声)とポルタメント(高さの異なる音へ滑らかに移す唱・奏法)を巧みに使って聴く人に感銘をあたえています。
 藤山は、本名増永丈夫、当時、まだ現在の東京芸術大学声楽科在校中で、声楽をドイツのヘルマン・ヴーハーペーニッヒ、音楽理論・指揮法をクラウス・プリングスハイムに師事し将来を嘱望されていました。しかし、昭和の恐慌で傾いた生家の借財返済のためにアルバイトで歌いコロムビアからデビューしています。
 同じ年(昭和6年)に発売された「丘を越えて」は「酒は涙が溜息か」とうってかわって、マイクから離れてレジェーロ(軽やかな)テノールの音色をいかし声量豊かに古賀メロディーの青春を歌いました。
 少し専門的になりますが、口蓋の上から直接鼻腔に抜き頭声に連動させたり、軟口蓋の後ろから突き抜けるように発声するなど、ここにも声楽技術がみられ、つまり、声量・響きの増幅が自由自在にコントロールされていたのです。
 流行歌、歌謡曲の流れる場所は、遊郭、カフェーなどになりますが、歌謡曲の歌手には、藤原義江のようなオペラ歌手、芸大出身者の声楽家が数多くいました。しかし、オペラ歌手が、オペラの歌い方で歌うため日本語が不明瞭でした。そこに藤山一郎が声楽の基本である共鳴の美しい響きで歌うベルカントの本質を歌謡曲に付し、明瞭な日本語でその美しさを伝えました。その点においては音楽理論・規則・楽典に忠実に歌う、まさに正格歌手・藤山一郎の登場は革命的だったのです。ベルカントという表現には「美しく歌う」という意味があります。リート(歌曲)やオペラのアリアの歌唱法の基本になっています。

歌謡界の「団菊時代」

 藤山一郎は昭和8年に芸大を卒業すると、ビクター専属となり、本格的なクラシックは本名の増永丈夫で独唱し、同時に、美しいテナーの音色を生かして、流行歌はもちろん、外国民謡、ジャズ・タンゴなどのポピュラーソング、内外の歌曲を歌っています。
 後にテイチク、さらにコロムビアに転じ、「東京ラプソディー」(昭和11年)、「青い背広で」(昭和12年)、「青い山脈」(昭和24年)、「長崎の鐘」(昭和24年)などのヒットを飛ばしますが、その後の活躍は御承知のとおりです。
 昭和初期の歓楽街で一番人気のあったのは藤山と、独特の髪型、直立不動で知られる東海林太郎(1898〜1972)であったといわれています。どこへ行っても、藤山と東海林のレコードがかかっていました。
 東海林は早稲田大学から「満鉄(南満州鉄道株式会社)」に進みましたが、音楽の途を捨てがたくエリートサラリーマンを辞め歌手になりました。戦前の東海林の最大のヒットは「赤城の子守唄」、「国境の町」などがお馴染みです。また、ヤクザ小唄、股旅歌謡などの日本調歌謡が人気でした。都市文化の讃歌を歌う藤山一郎と日本調歌謡の東海林太郎は日本の歌謡界の「団菊時代」を形成し、流行歌など見向きもしなかったクラシック愛好家にその魅力を伝えた功績があります。<2006.11>

(つづく)

  • 『国境の町 東海林太郎とその時代』(菊池清麿著)は2006年11月、北方新社より刊行予定です。
 
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