
私の試みる会話分析には、認知心理学が扱っているたとえば記憶だとか視覚だとかというような、およそ社会とは関係なさそうなテーマを社会的な現象として、社会学として考えていけないだろうかという問題意識があります。
認知心理学自体はそれなりに説得力があると思いますが、実験の最初の問いの立て方がそもそも不思議だなと感じるところがあります。
たとえば心理学の視覚の実験で、スクリーンを網膜に見立てて、いろいろなものを映してどう見えるかを調べたりします。果たして、そうした実験で人間の見るということを明らかにできるのかという疑問が生まれます。そもそも私たちは網膜に映ったものなど、見ていないからです。
見ることをテーマにしたときに、たとえば脳のメカニズム、あるいは実験心理学のように実際に何に見えるかという被験者の報告に照準をしていくということもあるとは思います。一方で、私たちが見るということを、そもそもどういうふうに理解しているのかということに照準をあてることもできるはずです。
たとえば心理学者による見ることの定義があったとしても、私たちはそれを読んで、見るということを理解しているわけではありません。また、日常の生活の中では、見ることに関係する言葉として、観察するとか、あるいは視覚的なものとは限らなければ吟味するとか検査するという言葉もあります。
そういう中で、見るといえばお互いに何のことを言っているのかわかるような理解が、私たちの中に一つ一つの文化的な現象として培われているわけです。そこに会話分析を用いて照準を合わせていきたいのです。

実際に、見ている、見るというような表現がどういうふうに使われているかに照準を合わせれば、当然それは個人の中ではなくて社会の中で使われているということがわかります。そのためには普通の人が普通の場面でどういうふうに用いているかを見ていけばいいだろうということから、会話分析が有効ではないかということになります。
そこで、実際の会話分析の作業で、難しい問題のひとつは、実際に言葉として「見る」と声を出していわないこともたくさんあることです。たとえば、会話の相手が「動いているかな」といって何かにかがんだときに、ああ相手は今これを見ているのだなと思うから、自分も一緒に見ようと思うわけです。そのときいちいち見るとか見ないとか言葉に出さないことも当然ありますし、そちらの方がむしろ多いでしょう。
そうすると、会話分析では、一方で表現の使い方に照準をしていくのですが、一方では表現に現れないようなことにも注目する必要があるという、ちょっと複雑な事情が生じてきます。

それともうひとつ考えなければならないのは、見るでも、聞くでも何でもいいのですが、それが何なのかということを 、私たちはすでに知っていることです。知っているけれど、必ずしもいつもそれをうまく表現しているわけではありません。その表現できないものをどうとらえるかです。
たとえば目を開けていれば、網膜には山のように情報が飛び込んできますが、相手の顔を見ているとか、あるいは特定のテーブルの上のテープレコーダーを見ているとか、実際には特定のものを見ているわけです。その特定のものを見ているということがお互い同士どういうふうにどうしてわかってしまうのか。これを調べるために、実際の相互行為を見ていこうというのが会話分析の立場です 。
見るというテーマならばビデオも撮る必要もあります。心的な表現としては、たとえば理解するとかあるいは考えているとか、いろいろな心的トピックがありますが、ものによっては録音だけでもできることもあります。<2005.10>
(つづく) |