
たとえば私たちが、他人と遊んでいるときでも、仕事をしているときでもいいのですが、何か一緒にものを見るとすると、その場面にふさわしいある特定のものを選択して見ているわけです。その選択の基準が規範だと思います。その規範というのは個人のものではなくて、やはり社会的なものであるはずです。
その規範はその場面に固有のものであるかもしれないですが、一人だけが一瞬従う規範というのはありえませんから、仮にその場だけの1時間だけの間で通用する規範であっても、その人たちが共同で作り上げて、共同で従っているような規範だと思います。
そういう意味でも心的な何かを理解するということは、とりもなおさず何をどういうふうに理解すべきかという共同の規範に支えられているはずです。

今まで私たちは、心を個人的現象として強くとらえすぎて、社会的な現象として取り上げるということがあまりなかったのだと思います。哲学的な議論としてあったにしても、実際に社会の中でどのような現象が起きているか、経験的にといいますか、実証的に見ていくということはありませんでした。
普通の人の普通の会話を分析する会話分析は、その分析から個人の心的現象を、基本的に「透明な」もの、社会的なものとして捉えなおしていくことができると思います。
ですから、「社会と心」といっても、社会心理学のように、犯罪や非行の社会的な要因を探るというのとは、違うわけです。社会心理学は集団の心理を扱い、さまざまな社会的な要素、性別、階層などによってものの見方、感じ方がどう変わってくるかなどを研究します。しかし、会話分析は、社会心理学のように、心は個人のものだとしても、社会のさまざまな影響があるだろうと考えるのではなく、そもそも心それ自体が社会的なものとして存在しているととらえるわけです。<2005.10>
(つづく)
編集部 注
アメリカのプラグマティズムの創始者ともいえるミードは、心の社会的構成について次のようにいっています。「心が社会的に構成されるものであれば、いずれの個体のものであれ、およそ心の領域、もしくは心のありかは、社会的活動ないしそれを支えている社会的関係と同じ広がりをもつことになる。したがって、心の領域は、それが属する個々の有機体の皮膚界面によって境界づけられない。」(『心の社会的構成』ジェフ・クルター著 西阪訳 新曜社刊)より |