
私たちは、心というものは個人の内部に閉ざされていて、他人から見えない、不透明だと思っているかもしれません。多くの人は心というのは本人にしかわからないというかもしれません。
ところが、私たちは、「どういうわけか私はあの人の言うことがよくわかってしまう」というようないい方はあまりしません。むしろ「どうも私はあいつの言っていることがわからない」といういい方をします。
これは、他人の心がわからない方がむしろ例外で、普通私たちは他人の心はよくわかるものだと考えていることの証ではないでしょうか。わかるのが当たり前だから別にわかったとしても不思議がらないし、他人の心がわかるというのは、あまりにも当たり前だから気づかないでやり過ごしているだけなのです。
実際に「会話分析」という手法を使って、私たちが心に関するさまざまな表現をどういうふうに用いているのか、あるいはその表現について私たちがどういう理解をもっているのかを詳しく調べてみると、他人の心がわかっていると思って会話し、行動していることがわかります。
会話分析自体はとても根気のいる作業で、ここで例示してもわかりにくいと思いますので、興味のある方は私のホームページの「会話分析について」をご覧になってください。
もちろん、たとえば頭の中で何か念じているというような本人にしかわからないことはありますが、しかし、じつは他人の考えていることがわかることのほうが多いと思います。 だから、人間は共同で作業できたり、一緒に遊んだりできるわけです。
このように人間の心が、お互いにわかりやすい、いわば透明なものだとすれば、それは個人の中に、写真機の暗箱のようなところに閉じ込められているわけではありません。であるならば、 会話分析のような手段で外から近づき、分析することができるかもしれないといえるわけです。
この心の透明性という言葉は、会話分析の影響も受けているアメリカの社会学者ジェフ・クルター が『心の社会的構成』(西阪訳 新曜社)の中で「主観的現象の分析可能性」というような意味で使っています。
私たちの普段の会話や行動は、相互的で慣習的で、そこから日々の相互行為が生まれ、組織化されています。そのかぎりにおいては心は透明なのです。この平凡な世界の心的な現象に目を向けることから、心や、また、社会が意外な形で見えてくるはずです。

それでは、なぜ私たちは、普段お互いの心がわかることが当たり前として振舞っているのにもかかわらず、聞かれれば、心は個人の中に何か閉ざされたものであるというふうに答えてしまうのでしょうか。
それは、たとえば近代とよばれているような社会のひとつの現象だと思います。現代社会においては、人の心というものは基本的に個人の中に閉ざされたものだという考え方を前提として、いろいろな政策、行政、教育、医療などが組み上げ られているわけです。
ですから犯罪などの問題が起きると、まずその個人の心の問題にされます。その犯罪者の心理はどうだったのだろうかと考えるわけです。その人の中にある心ですね。だからどう対処するかというと、その人を拘束し教育し、更生させていくわけです。それでうまくいかなければ、さらにきめ細かく心を分析してその人の心にもっともふさわしい形で手当てをしていくことになるわけです。
そういうふうに今の社会は仕組まれているわけです。そう いう、個人はあくまで個人、心はそれぞれの内部にあって互いに切り離されているという考え方を前提にしているような社会は、そもそもどういう社会なのだろうかということが社会学のテーマになるわけです。
ただし、会話分析というのは、相互行為の分析のための限定された手法で、こうした大きなテーマに直接、答えようとするものではありません。しかし、心への新たな見方をもたらすことで、少なくともその入り口まではいけるはずです。 <2005.10>
(つづく) |