
視覚系や聴覚系の信号が大脳皮質で処理されるまでの複雑な過程に比べて、嗅覚系は感覚細胞から大脳皮質に至るまで、比較的短い経路です。そういう点では、嗅覚系は単純な系です。
ただ大きな違いは、嗅覚系は対象物を認知するという神経の情報処理機構とともに、いやなにおいだとかいいにおいだとかおいしそうなにおいだとか、対象物に何らかの情動を結びつける神経機構と強く結びついていることです。
たとえば視覚では、普通、ただの三角形を見ただけでは情動とは結びつきません。誰かの顔であれば、好きだとか嫌いだとかという情動と結びつくかもしれません。視覚では、対象物の情報をいろいろ処理をして、初めて好きだとか嫌いだとかという情動と結びつくわけです。

そうした情動には、わたしたちの感情に上る部分と、わたしたちの主観に上らなくても体が自動的に反応する部分があります。
主観的な感情の部分というのは、ヒトでないと研究ができませんが、体として自動的に反応する部分は動物でも確かめることができます。たとえば、動物でも、腐ったにおいを嗅がせると一瞬、呼吸を止めてしまうようなことは、意識がない麻酔下でも起こります。
基本的にはこうしたにおいは危ないから吸い込まない、食べないという反応です。それは脳の神経回路の中に組み込まれていて反応しているのです。動物が生まれながらに持っている神経回路だと思われます。
嗅覚は、動物の食べ物探し、天敵の認識、仲間の認識、交配のための異性の確認など、日常生活にとっては大事な機能です。動物にとって「におい」を感じることは、生存にもっとも基本的な機能のひとつなのです。ですから、それに対応して、動物に情動反応を起こさせるメカニズムが脳の神経回路の中に作られているのは理解しやすいことです。
心拍数が上がる、呼吸が乱れるなどの情動応答、自動的に起こる応答は、ヒトと動物と共通ですから、動物実験と合わせて調べていくことができます。ほ乳類には、においによって情動反応が起こって、行動と結びつくという機構は、多く見られます。
この基本的な回路に加えて、そうした情動反応をわたしたちの主観的な感情に結びつける神経回路があると考えられます。その嗅覚の神経回路と感情との神経機構をなんとか結びつけて理解したいというのが、わたしたちの研究の究極の目標です。

ヒトの感情の神経機構は、まだわかっていません。感情を担当する神経系を持ったヒトのモデルとなるような動物は発見されていないので、動物実験ができないからです。
今のところヒトの感情を観察できるのは、脳のPET(陽電子断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)などの画像撮影です。ある感情を起こすと、脳のどの辺が多くの信号を出しているかがわかります。ですから場所は大まかにはわかりますが、細胞、回路のレベルで、どんな機構で感情が起こるかはまだわかっていません。
しかし、ネズミなどを用いた研究で、基本的な情動反応や情動学習の機構がわかりつつあります。こうした基本的な知識に基づいて、ヒトでも怒りや不安などの情動機構やそれに伴う感情の機構を推測できるのではないかと、特にアメリカでよく研究されています。
今までの哲学や心理学の考察は、情動や感情については内省をもとにしていますので その神経機構を推測することはできませんでしたが、現在は、情動機構の基本的な部分を、動物実験でかなり追求できるのです。
情動の研究に嗅覚が有利なのは、いやなにおいはほとんどの人は避けるという、情動応答がきれいにでるからです。もちろん「くさや」を好きになる人はいますから、嗅覚にも学習機構が備わっていて情動応答も変更可能です。しかし、基本的には、単純に食べられるか食べられないか、危険な相手かそうでないかを決定することの重要性が、嗅覚の神経系や情動機構の神経回路を進化させてきたのではないかと考えられます。
人間の場合、快、不快という感情は、におい以外の外界の刺激にも結びついています。おそらく、情動を担当する神経回路と嗅覚を担当するところ、視覚を担当するところ、もしくは感情を担当するところ、いろいろなつながりがあって、そのつながり方が、解明の糸口だと思います。<2004.08>
(つづく) |