ゑれきてる
   
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SPECIAL~特集
特集2.小説の始まり(中)書き出しには、驚くほど作家の個性が表れる 中条省平

書き出しに描写で主題を提示した大江健三郎

 前回は西欧と日本の対比で書き出しについてお話ししましたが、今回は日本の作家の中で見てみましょう。
 小説の書き出しには、いくつかルールのようなものがあります。たとえば状況描写は、下手をすると読者にとっては迷惑な話になるので、本来禁じ手なのですが、大江健三郎は成功している数少ない例です。描写というのはうまくいけば、行為よりも、その小説の主題を出せるところがあります。
 『明暗』の書き出しの、「医者は探りを入れた後で、手術台の上から津田を下ろした」。これは行為ですが、ここには、主題は盛り込めないですね。つまり、医者とか病気などのテーマは、何となくわかりますが、ここに、何か作家の言いたいことが表現されているわけではありません。『伊豆の踊り子』の冒頭も同じで、「道がつづら折りになって・・・」雨が降ってくる、ここにも主題はないわけです。ですから、作中人物の行為を切り取った冒頭部分というのは、読者を引きこむにはいいのであって、むしろ読者のためのテクニックです。
 本来、作者は、自分の言いたいことがあるわけです。その自分の言いたいことをまず出すという場合には、行為よりもむしろ状況描写の方が、効果を発揮します。単刀直入に、物語よりもテーマを提示したい場合には、描写は適しています。
 書き出しに描写でテーマを提示するという手法をよく使うのは、大江健三郎です。大江の書き出しをいくつか読み直して、やはり書き出しというのは露骨に作家の個性が出るなと、改めて感じました。
 たとえば、『死者の奢り』。「死者たちは、濃褐色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている」と死者の描写をすることで、人間がものになってしまう瞬間のようなことが、すでにテーマになっているわけです。これは行為では絶対描けません。
 『奇妙な仕事』の冒頭も描写です。「附属病院の前の広い鋪道を時計台へ向って歩いて行くと急に視界の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連りの向うに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから数知れない犬の吠え声が聞えて来た。風の向きが変るたびに犬の声はひどく激しく盛上り、空へひしめきながらのぼって行くようだったり、遠くで執拗に反響しつづけているようだったりした」。
 病院の前の描写があって、そして「建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっている」、つまりなんでもない空間さえも攻撃的な感じがしている。決して叙情的にここに主人公がいて、いい気持ちであるとはとても思えないですね。何かきしみを上げている、犬の吠え声が聞こえてきて、というふうになるわけです。
 これは『死者の奢り』の時の死者と同じような描写で、この犬は殺されるための存在です。初期の大江健三郎の作品は、人間が死者になったり、犬みたいに殺されるというふうに、受動状態の中にあって、なんにもできない人間というものに対する強いいらだちがあります。『奇妙な仕事』の場合は、『死者の奢り』よりもっとはっきりと、「鉄骨がぎしぎし空に突きたっている」という、主人公の、鬱屈した、攻撃的な感じを表現しているわけです。
 これは具体的な描写ではありますが、空に突きたっているというのはメタファーで、本当に刺さっているわけではないですから、主人公の心的な世界の描写ですね。と同時に、犬の吠え声という、これから殺されていく犬のテーマがはっきり出ているわけです。その点では、漱石や川端に比べるとずっと直接にテーマに切り込んでいるし、その意味で良くも悪くも文学的です。読み物という感じではありません。
 この「ぎしぎし空に突きたっている」という表現は、ものすごく効果的に埋め込まれていて、描写の成功例です。
 素人が情景描写をすると、こんなものでは済まないですよ。ともかく、うんざりするくらい書き込みますね。「犬たちは舌を出して、息を切らせて、やるせない目で見る」とか、そんなところまでいくわけです。
 ですから、そのあたりはバランスが大事です。『奇妙な仕事』も『死者の奢り』も描写ですが、たとえば『万延元年のフットボール』では、状況描写どころか、本来なら読者がうんざりしてしまうような、自分の心の中を散文詩ふうに書いているわけです。「夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をもとめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。内臓を燃えあがらせて嚥下されるウイスキーの存在感のように、熱い「期待」の感覚が確実に躰の内奥に回復してきているのを、おちつかぬ気持で望んでいる手さぐりは、いつまでもむなしいままだ」。
 はっきりと冒頭に、「熱い「期待」の感覚をもとめて」なんて言っているわけです。これはもう、やってはいけないほどの例です。期待の感覚を持っているにもかかわらず、「いつまでもむなしいままだ」というふうに、期待と虚無感のようなものを、具体的に書かずに、2ページくらい続きます。この文章は、大江らしい肉感性がよく出ていますが、彼が偉いから許されますが、普通の人がやったら、もういい加減にしろということになります。ここでも、あからさまに心象としてテーマが出ています。
 それから『洪水はわが魂に及び』も、「人類が月から火星をうかがう時代の超音速時間感覚には、遥かな昔に思われるが、アメリカの核避難所ブームにみちびかれて、その規格品を生産・販売しようとする日本人業者がいた。見本の核避難所が、武蔵野台地の西端に作られた」という状況説明ですが、核避難所という主題がすでに出ています。
 たとえば、武蔵野の台地の西に森があって、その森に家があって、しかしその家には何か変な物が付属していて、打ちっ放しのコンクリートで、というのではなくて、はっきりと核シェルターという主題が出ています。
 『個人的な体験』もまったく同じパターンです。「鳥(バード)は、野生の鹿のようにも昂然と優雅に陳列棚におさまっている、立派なアフリカ地図を見おろして、抑制した小さい嘆息をもらした。制服のブラウスからのぞく頸や腕に寒イボをたてた書店員たちは、とくに鳥(バード)の嘆息に注意をはらいはしなかった。夕暮が深まり、地表をおおう大気から、死んだ巨人の体温のように、夏のはじめの熱気がすっかり脱落してしまったところだ」。
 まるで主人公の鳥(バード)が、単に本屋で地図がほしいなと思って見ている場面のようですね。だが、実をいうと、アフリカ地図というのは期待の感覚の具象化です。
 つまり行きたいアフリカ、だけど行けないアフリカ。しかも、「野生の鹿のようにも昂然と優雅に」という理想と対比されて、自分たちは、小さいため息とか、寒イボをたてた書店員とか、死んだ巨人の体温のように熱気がすっかり脱落してしまっている。さっきの犬とか死体じゃないですが、幻のアフリカは燦然と輝いているのに、今いる自分というのは、もう完全に力が屈している。ここにも露骨なまでに主題が埋め込まれています。大江健三郎の書き出しは、完全に主題提示、描写的で、場合によっては心象風景的だということがいえると思います。大江健三郎の小説というのは、このように徹底的にすべての冒頭がテーマの表現なのです。
 そういう意味では、主題をきっちり出すことも、書き出しの一つの魅力になりうるという一つの例ですね。ただ、後年の、『万延元年のフットボール』以降の大江健三郎は、初期にこういうことをやりすぎて、物語がそれほど盛り上がらないし、もう、うるさいというか、お説教やめてという感じを受けますね。

時代の透明人間、村上春樹

 人気作家村上春樹を見てみましょうか。書き出しを並べてみると、村上春樹と大江健三郎の違いがよくわかります。大江健三郎の具体的な肉感性というのが、村上春樹の場合は完璧にないですね。村上春樹はまるで他人事のごとく自分を語ります。
 たとえば『1973年のピンボール』ですが、これは小説の書き方からしますと、主人公の状況を語る、一般的な状況設定のように見えます。
 「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。一時期、十年も昔のことだが、手あたり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわったことがある。他人の話を進んで聞くというタイプの人間が極端に不足していた時代であったらしく、誰も彼もが親切にそして熱心に語ってくれた。見ず知らずの人間が何処かで僕の噂を聞きつけ、わざわざ話しにやって来たりもした」。
 「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」というのですが、見知らぬ土地の話の内容にはいきません。
 「一時期、十年も昔のことだが、手あたり次第にまわりの人間をつかまえては生まれ故郷や育った土地の話を聞いてまわった」といいますが、手当たり次第にまわりの人間というだけで、まわりの人間は具体的には出てこないのです。「他人の話を進んで聞くというタイプの人間が極端に不足していた時代」というふうに、その主人公の話のはずなのに、主人公とか、主人公がかかわった具体的な人間や土地に話はいかず、「誰も彼もが親切にそして熱心に語ってくれた」、ここでも誰も具体的な人間が出てきません。
 つまり、ここで語られていることは、個人の身の上話のように見えて、全然そうではないんです。きわめて抽象化された、ある種の、時代の透明人間のような人間の、一般論なのです。ここには、その人の人生も肉感もその場所の具体性も生きている空気も、なにもないのです。
 こんな一般論では、昔だったら、小説としては、誰も読みたくないということになりかねません。なぜなら、なにも事件が起こってないわけですから。他の作品もそうです。
 『羊をめぐる冒険』は、推理小説風に展開しているので、普通であれば、書き出しで突然話が展開するはずなのですが、「新聞で偶然彼女の死を知った友人が電話で僕にそれを教えてくれた」というだけなんです。どんな友人かもわからないし、何新聞かもわからない。「それ」といわれても、これもわからない。「平凡な記事だ」、しかも、「大学を出たばかりの駆けだしの記者が練習のために書かされたような文章だった」ということは、つまり主人公のもとに何か情報が伝えられたということしか言ってないのです。彼女の死が悲しかったとか、何とかという話はなにもないのです。具体性を欠いているし、間接的です。
 村上春樹は、自分の肉感や身体に、どうも自信がもてない時代にあって、それを、退屈にならずに語れる稀有の作家です。時代の空虚さを、退屈にならずに語れる才能じゃないかなと思います。
 すごいのは『ダンス・ダンス・ダンス』です。
 「よくいるかホテルの夢を見る。夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。夢の中ではいるかホテルの形は歪められている。とても細長いのだ。あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。そして僕はそこに含まれている。そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ」。
 夢の描写ですが、もはやこれはいったい何のためにこの描写がなされているのかわかりません。普通は、自分が見た夢の話というのは退屈ですから、絶対に人に聞かせてはいけないのですが、なにか意味ありげに、「細長く延びている」とか、「誰かが涙を流している」とか、それなりの感情表現はされているわけです。だから、間接的な手触りしかもてない人間に対して、むしろ、リアルじゃないリアリティ、そういうものを冒頭においているのがわかります。
 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と『羊をめぐる冒険』は、一見推理小説風になっていて、漱石とか、川端康成と同じで、突然状況のまっただ中に引きこむパターンと似ています。
 「エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた。おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。しかし正確なところはわからない。あまりにも速度が遅いせいで、方向の感覚というものが消滅してしまったのだ」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)。
 「エレベーターはきわめて緩慢な速度で上昇をつづけていた」というふうに、エレベーターに乗っているところから、突然始まります。ところがその後に、やはり具体的な場所がまったく出てきません。「おそらくエレベーターは上昇していたのだろうと私は思う。しかし正確なところはわからない」、「方向の感覚」がない。行為のただ中に引きこまれながらも、行為そのものの意味とか、具体的なリアリティが消えてしまっている点、それは悪いという意味ではなくて、そういう時代の雰囲気を表現しています。
 書き出しのパターンとしては、彼は一般論の状況説明もやっているし、行為のただ中に引きずりこむということもやっています。その典型的な二つの例も書き分けているのですが、結局そこで具体的なことはなにも語られないという一点において、彼の書き出しというのは、ほとんど同じです。
 強いて言うならば、『ノルウェイの森』が、明らかにきちんとした状況説明を行っていますが、ただこの作品は、全編フラッシュバックで構成されていますから、『羊をめぐる冒険』とか、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のように、なにが起こるかわからないという感覚でずっといくミステリー的な小説作法とは違います。その意味で、『ノルウェイの森』は、すべてが終わってしまったところから話を始めたので、ミステリー的な小説作法とは違う、何処にいくのかわからないというのとは違う書き出しが、唯一できたのではないかと思います。
 「僕は三十七歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空港ビルの上に立った旗や、BMWの広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の背景のように見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った」。
 それにしても「十一月の冷ややかな」とか「のっぺりとした空港ビル」とか、「フランドル派の陰うつな絵の背景」とか、なんとなく村上春樹らしい雰囲気を出しています。大江健三郎と違って、状景を語っているのですが、絶対に肉感的なリアリティにいきません。だから「ぎしぎしと突きたっている」という方が、大江健三郎の何か肉体的なリアリティだとすると、村上春樹は「のっぺりとした絵のような」、肉感性を消した、フラットな画面のような表現になるわけです。これは、遠近法が消えてしまった今の時代と確実につながっているわけです。そのことが、逆に村上春樹の、今のリアリティというものを裏打ちしているのだと思います。
 その意味では、大江健三郎から村上春樹へというのは、なにか時代が、決定的に違うところに行ってしまったなという感じがします。<2002.01>

(下)「開高健など」へ続く

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